【寄稿】第二十次台湾慰霊訪問報告

日台の生命の絆 死守せむと 吾 日本の一角に起つ

『この言葉は私たち団員のみならず、ご支援・ご協力いただいております全ての同志の皆様の共同の決意と信条であります。
思いおこせば、初めて台湾を訪れたのは平成十一年の三月でした。爾来、今年で二十年の歳月を刻むことになりますが、現地の皆様の、家族・兄弟の情愛にも勝る、まごころ溢れるご歓待は、この旅に参加した私たち日本人をまたたく間に台湾の虜にしてしまいました。台湾の皆様のこのような姿勢は、訪問団結成以来、政権与党が四度変遷したにも拘わらず、本日まで変わることなく続いております。それは、領有五十年の時代に築かれた魂の絆と、東洋平和の為に決然起って共に血と汗を流した運命的一体感に淵源を持つからです。
大東亜戦争終戦に伴う講和会議において、わが国が施政権、行政権を「台湾人」に返還した台湾、二二八事件を経験し、それに続く四十一年間の戒厳令に耐え抜いた台湾、季登輝総統の治政下で復権された領台時代を「認識台湾」という形で公教育に導入した台湾、太陽花学生運動を国民的規模で応援し、両岸サービス貿易協定を葬り去った台湾。そのような経緯を主体的に担い、地道に勝利体験を積み重ねてきた、しなやかで誇り高い国民であるからこそ天は最も相応しい人をリーダーとして遣わされました。
中華民國第十四台蔡総統の就任後、一党独裁の覇権国家・中共は蔡氏が認めていない「一つの中国」の受け入れを求め、台中交流を停止し、国際会議への出席を妨害、台湾と外交関係のある国に断交を迫るなど白昼公然と圧力を強めてきています。しかし蔡氏は今月十日の双十節において「中国の一方的な文攻武嚇と外交圧力により、台湾海峡の平和と安定は深刻な挑戦にさらされてきた」としながらも、対話に言及せず「屈服も譲歩もしない」姿勢を強調し、国民の支持を受けながら、いささかも怯むことなく独裁国家と対峙しています。
北朝鮮による半島全土の赤化圧力と相俟って決して予断を許さない情勢であるからこそ、今年も台湾の勇士の皆様の英霊を顕彰するために現地へ赴きます。それと共に一緒に戦われた日本人の英霊に哀悼と感謝の誠を捧げて参ります。かくなる行為を通じて、現地台湾の皆様との家族・兄弟の契りを一層深めて参ります。それは、この地道な魂の交流活動こそが日台両国の関係強化と日本統治時代の価値の復権に資すると確信するからです。全ての心ある同志の皆様、今年も変わらぬご支援・ご協力の程よろしくお願いいたします。…(後省略)』

 

本『結団の誓い』を旨、平成30年11月22日~26日(四泊五日)間、日華(台)親善友好慰霊訪問団主催による第二十次台湾慰霊訪問が催行された。

当日、小菅亥三郎(こすげ・いさぶろう)団長率いる本隊61名は、福岡国際空港にて出発式を慣行され約11時頃に出発し、現地合流組、特に沖縄県からの参加者3名は各位那覇国際空港より約12時頃に出発し、Bプラン10名(二泊三日)を除く総勢64名は、桃園国際空港(台北)にて約13時頃(時差1時間遅い)に同時到着した。

 

始工程は、厳粛のなか忠烈祠(ちゅうれつし)にて献花式が催行された。忠烈祠は、辛亥革命から中華民国建国ならびに革命、中国大陸での事変、台湾海峡危機、大東亜戦争等で戦没した英霊や国民を含む約33万人を追悼する寺院ではありますが、台湾国が総力を挙げ荘厳かつ厳粛に管理され、あの有名な衛兵交代式では、陸、空、海軍から選ばれた衛兵が1時間毎に実行された。

日本では、完全なる民間団体である一法人が、殉国の士246万6千余柱の英霊を祀る靖國神社との相対的な相違など情けなさを実感させられた。

夕食会は、日本では外務省の外交部署的と思われる「台湾日本関係協会主催歓迎夕食会」へ招待され、時の田中角栄総理の一方的非礼な外交遮断等、日台の早期外交改善策を切望ながらの楽しい一時を論ず。

初日の宿泊地は、東京では千代田区に相当すると思われる都市、台北中心高級ホテルの広々とした同室する相棒(5歳年下)の方と時事問題を語りながらも明日へ向け就寝した。

 

二日目は、ホテルにて朝食バイキングを頂き一路台北駅へ、日本が誇る新幹線技術を採用した台湾高速鉄道へ乗車し、10時7分予定通りに台南市南駅へ到着後バスにて奇美博物館へと向かう。奇美博物館は、台湾を代表する企業「奇美グループ」が広大な工場跡地に西洋風豪華絢爛的様相を呈し、1万点余の西・東洋芸術、楽器、兵器、動物(剥製)が展示された宮殿ではあるが、自分には西洋文化が色濃く台湾独自の文化芸術性に疑問を感じる点は心残りである。

昼食は館内で済まし、台湾では孫文・蒋介石と並ぶ鄭成功(ていせいこう)(三人の国神)を顕彰する平安古堡(あんぴんこほう)を見学し、次の式典会場へと向かう。
台南市安南区地中街の地域の鎮守である「保生大帝」を祀る、道教ゆかしい海尾朝皇宮にて献花式を催行し、隣接する飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびょう)の慰霊式では、日の丸を掲げ全員で君が代斉唱後黙祷を捧げ、小菅団長より祭文を語り奉納した。

飛虎将軍廟とは、日本海軍の兵曹長・杉浦茂峰(すぎうらしげみね)(大正12年生)氏は、昭和19年10月12日、台湾台南市上空でアメリカ空軍と空中戦で撃墜されながらも、海尾の集落を避けて畑へ墜落され散華された。

終戦後、海尾寮集落において、『白い帽子と服を着た日本の若い海軍士官が枕元に立っている』という夢を見たという者が数名いました。その後、集落の有志が集まり、その海軍士官が部落を戦火から救うために、自分の生命を犠牲に集落を守った英霊として、昭和46年に杉浦茂峰氏を祀る祠(ほこら)として建設された。

その若き青年兵士を、恩人として「保生大帝」と隣合せに祀られ地元民の情愛に感嘆する。

夕暮れ頃、保安堂でも日の丸を掲げ全員で君が代斉唱後黙祷を捧げ、小菅団長より祭文を語り奉納し慰霊式を挙行した。保安堂とは、昭和21年、漁網に頭蓋骨が上がりました。漁師達はその頭蓋骨を寺院に祀って弔うことにした。すると大豊漁が続いたため、漁師や地元の人達は漁業祈願として頭蓋骨を祀るようになりました。

ある時、ある漁師の枕元に頭蓋骨の本人だと名乗る者が現れ、「帝国海軍38号哨戒艇艦長で、大東亜戦争で戦死した。ついては帰国のために船を造ってもらえまいか」と告げたそうです。その後、帝国海軍38号哨戒艇の模型(神艦)も併せて御神体として祀る霊廟である。

廟を囲む傍らには高田艦長他乗組員145名の御名前を明記した幟(のぼり)が靡(なび)き御霊が我々を大歓迎してくれたのか高揚感に浸る。

儀式後、保安堂を守り維持管理する皆様による「保安堂主催歓迎夕食会」が開催され、意外と若い方が多く言葉は通じないが和気藹々(あいあい)互いにスマホの翻訳アプリを馳駆(ちく)しながらも美味しい料理に舌鼓を打ち、地元の強い酒で乾杯を繰り返すなか意識朦朧(もうろう)となり、その夜の出来事は脳裏に薄い感はある。

 

三日目は、少し二日酔いでバスに揺られて2時間少し田舎町屏東(へいとう)へ到着後、東龍宮(とうりゅうぐう)でも日の丸を掲げ全員で君が代を斉唱し黙祷を捧げ、小菅団長より祭文を語り奉納し慰霊式を挙行した。当神社は、台湾発展に尽力された田中綱常(たなかつなつね)海軍少将を祭神として、他に乃木将軍・北川将軍、また軍の看護士であった中山其美(女子)将軍・良山秋子(女子)将軍の全祀神が日本人でありますが、道教方式による現地住民の信仰の対象になっております。

近くのレストランにて昼食後、台湾の文化遺産に指定された、台湾季登輝友の会総代表 黄崑虎先生のご自宅、七包三式的四合院(7つの建物と3つの様式に囲まれた中庭)を拝見し、仏間、応接間等の全ての柱には「家訓」が彫られ教訓を得た感がある。

その日の夕食は、当方Bプラン9名の合流組も加わる総勢73名の基、台日友好協会主催歓迎夕食会主催であったが、約8割が50~70代(30代も居た)の女性の方々が各円卓を活気付けられ懇親会を盛り上げた。やはり蔡英文(さいえいぶん)現総統も女性であり、その会では台湾女性のパワーを痛感させられた。

 

さて、本訪問団の最大の目的(自己思慮)は、『大東亜開放』を目指し日本軍と共に戦い無念にも散華された台湾軍人の英霊への顕彰慰霊が目的である。

その場所は、台中市街地にある『宝覚寺』であり、別名「台湾の靖國神社」と呼ばれ、大東亜戦争で散華された台湾出身元日本軍人・軍属3万3千余柱の英霊が厳(おごそ)かに祀られている。そして、地元では毎年11月25日に慰霊祭が斎行されていることを確認され、日本軍人として共にアジア解放のため志願した軍人軍属の殉職者である。やはり「靖國神社と同等慰霊祭をすべし」との、日本精神に基づき19回連続参列しているものと理解し、今回の第20次へ自分も初参加し感動を幾度も覚えた感は忘れまい。

慰霊祭は、霊安故郷碑(季登輝総統の揮毫)の前で行われた。先ずは、中華民国(台湾)と日本両国の国旗に拝礼、台湾国歌に続き君が代を斉唱、続いて黙祷後、小菅団長より献花、両国による祭文を奏上し御礼挨拶後、当会第20回目の慰霊祭が挙行された。

慰霊祭前には、慰霊式として同境内にあります、日本統治時代に台湾で亡くなられた日本人の方々1万余名が永眠されている「日本人墓地」においても慰霊式を滞りなく斎行され、最後には一人一人全員が御焼香を捧げ御冥福を祈る。

昼食は、台湾台日海交会主催歓迎昼食会では、慰霊祭を終えられた会員の方々と一緒に円卓を共にしましたが、ほとんどの方が日本教育を受けられた御年輩で統治時代を語る姿には、当時の佳話(かわ)で和み。また戦後蒋介石時代の悲哀を感じたが只々来年の再会を祈願するのみであります。

一行は、バスに揺られ約2時間田舎町新竹へ。南天山濟化宮とは、日本の靖國神社に祀られている台湾人は約2万8千余柱であります。但し、遺族の方々が日本の靖國神社へ参拝することが大変厳しいために、40年前に靖國神社より御祭神の名簿を頂き道教式の位牌へと代え、7階建ての室内へ隈なく奉納され顕彰されていた。一同、日の丸を掲げ全員で君が代を斉唱し黙祷を捧げ、小菅団長より祭文を語り奉納し慰霊式を挙行した。

式後、バスは約1時間で新竹駅へ到着し台湾高速鉄道にて一路台北へ。到着後、黄文雄先生主催歓迎夕食会へ招かれた。

黄文雄先生とは、昭和13年台湾高雄県生れ、昭和44年早稲田大学卒業、46年明治大学大学院、拓殖大学客員教授を経て、鋭い筆法で評論活動を続け、そのダイナミックな歴史観と博覧強記の知識によって日本でもお馴染みの方で、参加したメンバーも大学教授・新聞社社長・作家等、知名度の高い知識人で悠長な日本語で語り少し緊張はしたが、共にお酒を酌み交わし歓談したら同じ愛国者である。

ただ、これまで開催された会食会場は二流程度ではあったが、本会場は一般庶民が利用する居酒屋タイプで、先生曰く「この店の従業員は殆どがインドネシアからの出稼ぎです。但し、料理だけは美味しいよ」と、現在国会で議論中の「外国人技能実習制度」成立による日本の2年後を垣間見る思いである。
なお、そのインドネシア人達は、大体が20代で台湾語も分からず、配膳が雑で鍋物など時はこちらが緊張させられた一面も見受けられた。もしかしたら先生は其のところを警鐘したのでは・・・・。

 

最終日は、明治28年、台湾総督府より参事官心得を命ぜられ、台湾各地で治水工事等多くの功績が認められ、明治30年宜蘭庁長に任ぜられた。明治維新の元勲、西郷隆盛の子息「西郷菊次郎」の功績を記念する碑「西郷庁憲徳政碑」で献花式を挙行した。

最後は、台日文化経済協会主催歓迎昼食会へ御招待頂き、台湾を代表する御歴々の方々が温かく迎えてくれ美味しい料理に舌鼓を打ながら、尋常小学校当時の思い出など拝聴しながら歓談する。

 

心残りではありましたが、帰国の時間が3時間前と迫り小菅団長の御礼を早々と述べられ急ぎ桃園国際空港へと出発し、午後4時20分発チャイナ航空にて福岡へと帰国の途に就いた。

 

追伸
各神社仏閣での祭文概要は、「人物がどうして地元で神として祀られているのか。当施設の由来」等が冒頭に口上され、後は『』内が支流だと思います。『欧米の植民地支配の軛(くびき)から黄色人種解放という世界史的偉業に一命を捧げられた崇高な行為に対し敬意と感謝の誠を捧げ、日台両国の国交正常化と運命共同体としての絆を一層深めていくことを祈念しています。』

これまでの台湾慰霊訪問の詳細等は、「日華(台)親善友好慰霊訪問団」のホームページを是非ご覧ください。

 

 

(南部支部 M拝)

 

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