日本会議沖縄県本部 特別顧問
中地昌平
兄に誘われ、十四歳で大阪に渡った私を待ち受けていた「儲かる仕事」とは、軍需工場での仕事でした。当時、中国大陸での事変が泥沼化しつつある時期で、大阪の中小鉄工所はこぞって軍の仕事を請け負っていました。
私が働いていたのは、飛行機の部品を作る鉄工所で、アルミニウム製の穴の空いたパイプを、石油タンクの中に入れてから、機械で回転させて一本一本紙やすりで磨く作業をしていました。すると綺麗なアルミの色が出てくるのです。回転させているので顔や体に石油がはねてドロドロになる大変な作業でしたが、一生懸命やりました。
その後も様々な職を転々としましたが、約二年後、紙製品の卸売などを扱う黒田国光堂(現コクヨ)から、学校に通いながら働く住み込み店員の募集があり、家族の賛成もあって応募しました。そして、無事に大阪市立東第二商業学校という夜間の学校に通うことになりました。自慢ではないですが、成績は優秀な方でした。思えば、この頃商売の勉強をしたことが、後々役に立ったのかもしれません。
昼は働き、夜は学校で勉強という生活を四年続けていましたが、在学中に大東亜戦争が開戦して戦局が悪化、二十歳になっていたこともあって、昭和二〇年二月に軍に召集されます。あと一ヶ月で卒業だったので、私は卒業証書のようなものはいただいていません。しかし、その一ヶ月後に大阪は大空襲を受け、焼け野原になってしまいました。
あの頃は、私もそうですが周りも「一死君国に報いる」という気持ちでやる気に満ちていました。男はもちろん、女性も工場に勤労奉仕に行ったりしていました。商業学校でも軍事教練が当然のようにありました。
こうして陸軍に入隊した私は、島根県松江の西部第一〇一部隊に配属され、二トントラックの整備や操作をたたき込まれました。この部隊は、戦争末期、南方の島々を守るために満州から転戦した兵の補充部隊で、訓練後は満州に行く予定でした。
訓練はとても厳しく、失敗するとすぐ蹴っ飛ばされました。そして、入隊して二ヶ月目くらいに「痔」が悪化して、すぐに入院して手術することとなりました。その結果、私は満州行きから外されたのです。その後、私がいた部隊は、予定通り満州に向かいましたが、朝鮮海峡で輸送船が潜水艦に沈められてしまいました。記録には、乗っていた兵隊は全員戦死扱いとなっており、生き残ったのは病院にいた私だけでした。
そのまま行き場もなく、病院で終戦を迎える事となりましたが、思えば大阪大空襲の一ヶ月前に大阪を離れ、乗るはずだった輸送船が沈んで私だけが生き残り、二度も命拾いしたのです。
(全五回を予定しています)