先達の歩み

沖縄の芽吹き

【オピニオン】[中地昌平特別顧問]沖縄、先達の歩み(5)

日本会議沖縄県本部 特別顧問 中地昌平 今回でこの連載も最後になりました。そこで、これからの沖縄について私の考えを二点述べたいと思います。 一つは、沖縄県の基幹産業を、立て直さねばなりません。かつては、私どもの製糖業が基幹産業と言われていま...
沖縄の芽吹き

【オピニオン】[中地昌平特別顧問]沖縄、先達の歩み(4)

日本会議沖縄県本部 特別顧問 中地昌平 私が製糖業に本格的に足を踏み入れた頃、製糖業は大変盛んでした。今では規模が小さくなってしまいましたが、沖縄の基幹産業であり、県内各地に大小様々な製糖工場があったものでした。 製糖業は、砂糖を扱う業種で...
沖縄の芽吹き

【オピニオン】[中地昌平特別顧問]沖縄、先達の歩み(3)

日本会議沖縄県本部 特別顧問 中地昌平 終戦を病院で迎えた私でしたが、同時に行き場を無くした状況でもありました。軍の病院には長居できませんし、元々住んでいた大阪は空襲で焼けてしまっています。しかし、大分県に母と妹が疎開していることがわかり、...
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【オピニオン】[中地昌平特別顧問]沖縄、先達の歩み(2)

日本会議沖縄県本部 特別顧問 中地昌平 兄に誘われ、十四歳で大阪に渡った私を待ち受けていた「儲かる仕事」とは、軍需工場での仕事でした。当時、中国大陸での事変が泥沼化しつつある時期で、大阪の中小鉄工所はこぞって軍の仕事を請け負っていました。 ...
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【オピニオン】[中地昌平特別顧問]沖縄、先達の歩み(1)

日本会議沖縄県本部 特別顧問 中地昌平 私が生まれたのは大正十三年三月十六日、那覇の松山町でした。 そもそも中地家は、関ヶ原の合戦で石田三成率いる西軍につき、合戦の敗北後は各地を転々としながら鹿児島まで避難しました。そして、慶長十三年ごろに...