【オピニオン】防人の眼差し(3)桃原公園

③北谷町・桃原公園

 

第3回は、北谷町の桃原公園です。この高地付近には、独立歩兵第12大隊の第四中隊が布陣していました。

第32軍による第9師団を含めた当初の計画では、第24師団を北・中飛行場及び海岸防衛に充てていました。しかし、昭和19年11月に第9師団を台湾防衛のために抽出することとなり、計画変更を余儀なくされます。

最終的に主力を首里付近に集めることとなり、北谷方面の防衛には賀谷興吉中佐率いる独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)が担当することとなりました。その任務は「中頭郡内の警戒に任ずるとともに所在軍直轄部隊と協力し、同方面の防衛が厳重なように敵を欺瞞する」ことでした。つまり、米軍の進撃を遅らせつつ、うまく日本軍主陣地の正面におびき寄せなければなりませんでした。

賀谷支隊長は戦闘開始前次のような訓示を隊員にしています。

「通常、防御は三倍の敵に対する言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘で、既に常識外れの戦闘だ。だから勝つとか負けるとか考えるな。常識外れの戦闘だからといって我々は今更戦を止めて帰るわけにはいかない。自分と自分の部下の命、そして国を護るため最善を尽くさねばならないのだ。大敵といえども恐れず、唯々最善を尽くすことのみ考えよ」

桃原公園の展望台から米軍上陸地方面を望む

こちらは普天間・前田高地方面の眺め

 

実際にこの地に攻めてきた米軍の第7師団と96師団は、12個大隊を擁し、艦砲や航空機による支援もありました。それを中頭各地に分散した賀谷支隊1個大隊で迎え撃ったのです。

賀谷支隊は、戦歴3~5年の現役兵主体の部隊であり、中国大陸北部での戦闘経験を積んでおり、強い団結力と歴戦の自信を有した部隊でした。

4月1日~4日までの間、機動力も砲兵の支援も無い状態で戦い、約20~50倍にもなる先の米軍2個師団の進撃を遅らせて、賀谷支隊は主陣地に後退しました。少ない兵力で大軍に立ち向かう日本軍の意地を感じます。

 

桃原公園(北谷町吉原554-1)

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